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この物語の主人公、三上龍之介は、百歳の誕生日を迎えた翌日の朝、安らかに息を引き取った。
龍之介は、平成の世には珍しい、筋金入りの武道マニアだった。剣は鹿島神道流、香取神道流、二天一流、柳生新陰流などを修め、居合いや抜刀術にも通じていた。槍は宝蔵院流、さらに弓矢や火縄銃、合気道、空手、柔道、忍術道に加え、ライフル射撃や猟銃の扱いまで身につけていたのだから、武芸百般という言葉がこれほど似合う男も珍しい。
いつしか龍之介は、平成の剣聖、剣豪、最後の武士、さらには塚原卜伝の生まれ変わりとまで呼ばれ、武道の世界では広く名を知られる存在になっていた。
そんな厳めしい経歴とは裏腹に、龍之介の性格は驚くほど柔軟だった。若者の文化を頭ごなしに否定することはなく、むしろ面白そうだと思えば自分から進んで触れてみる。愛読書には孫たちが買ってくるライトノベルが並び、夜更けには深夜アニメを楽しみ、美少女アニメの登場人物について孫たちと真剣に語り合うことさえあった。
筋骨隆々の武道家でありながら、その実、少し変わり者のオタク老人でもあったのである。
龍之介は第二次世界大戦に出兵し、無事に帰国したあとは、地元の大企業である世界のHIT●CHIに入社した。そこでエンジニアとして働き、定年を迎えるその日まで管理職の椅子に安住することなく、現場に立ち続けた。
戦場を生き抜き、戦後の復興と発展を働き手として支え、定年後は趣味の武道に打ち込んだ。その長い人生を振り返れば、百歳という年齢まで生きたことも、決して不思議ではないように思えた。
しかし、その男の死は、本人にとっても家族にとっても、あまりに突然訪れた。
龍之介は死の前日まで元気に過ごしていた。それが翌朝、いつもの時刻になっても起きてこないことを心配した十歳年下の妻が寝室を訪れると、龍之介は深い眠りに落ちたまま、いくら呼びかけても目を覚まさなかった。
妻は震える手で119番へ連絡し、龍之介は救急車で病院へ運ばれた。しかし、救急隊員や医師がどれほど呼びかけても、その意識が戻ることはなかった。
龍之介自身は、まるで全身麻酔を受けたかのような深い眠りの底にいた。身体は動かず、まぶたを開くことも、声を出すこともできない。それでも不思議なことに、耳から入ってくる音だけは、途切れ途切れながらも意識の中へ届いていた。
一説には、人が死を迎える間際まで残りやすい感覚は聴覚だと言われている。龍之介の場合も、まさにそうだったのかもしれない。
声を出して尋ねることはできなかったが、医師や看護師の慌ただしい足音、医療器具が触れ合う硬い音、そして自分の名を呼ぶ家族の声を聞いているうちに、龍之介は自分がどのような状況に置かれているのかを理解した。
「ピッ、ピッ、ピッ――――」
一定の間隔で鳴っていた電子音が、突然、長く途切れることのない音へと変わった。龍之介の胸に取りつけられていた心電図モニターが、彼の心臓が鼓動を止めたことを、静まり返った病室に知らせていた。
医師は龍之介の手首に指を添えて脈を確かめ、続いて瞳孔の反応を確認した。その表情から医師としての冷静さが消えることはなかったが、声には長い人生を終えた老人への静かな敬意がにじんでいた。
「ご臨終です」
「おじいちゃん……おじいちゃん、ねえ、聞こえるでしょう。目を開けてよ」
「じいじい、起きてよ。まだ一緒にいたいよ……」
孫や玄孫たちがベッドへすがりつき、声を上げて泣いた。まだぬくもりの残っている龍之介の身体に触れ、何度も呼びかけ、わずかな反応を求めるように肩へ手を置いたが、龍之介が再び目を開くことはなかった。
「あなた、本当にご苦労さまでした。百年も生きたのですものね。もう、頑張らなくてもいいのですよ」
長年連れ添った妻は、龍之介の手を両手で包み込み、震える声でそう告げた。目元からこぼれ落ちた涙が、幾筋ものしわが刻まれた頬をゆっくりと伝っていった。
龍之介の死因は老衰だった。百年にわたって働き続けた細胞も、絶えず鼓動を刻んできた心臓も、とうとうその役目を終える時を迎えたのである。細胞分裂の回数も、心臓が刻める鼓動の数も限界へ達したのだと考えれば、それは人として避けることのできない、自然な最期だったのだろう。
もっとも、龍之介が家族へ残した最後の言葉は、平成の剣聖と呼ばれた男のものとしては、あまりにも彼らしいものだった。
「今期のアニメの最終回を見たかった……」
それが、三上龍之介の最後の言葉だった。
龍之介は孫たちの影響を受けてオタク文化に触れ、そのまま自分も夢中になっていった。孫たちに頼まれるまま、いくらでも小遣いを渡すような甘い祖父ではなかったが、本を買ってほしいと頼まれたときだけは別だった。
龍之介は本というものを愛していた。歴史書であろうと専門書であろうと、漫画であろうとライトノベルであろうと、そこに優劣をつけることはなかった。孫たちが読みたいと望む本であれば、どのような本でも分け隔てなく買い与え、自分も興味を持てば同じ本を手に取った。
孫たちのために買ったはずのライトノベルや漫画を、いつしか龍之介自身も楽しみにするようになり、物語の中に描かれた空想の世界へ、自分の夢を重ねるようになっていたのである。だからこそ、武道の達人でありながらアニメや漫画の話が通じる、理解のある少し変わったおじいちゃんとして、家族から深く愛されていた。
家族に見守られながら臨終を迎えた三上龍之介、享年百歳。
平成の剣豪、剣聖、最後の武士、塚原卜伝の生まれ変わりとまで言われた男の人生は、こうして終焉を迎えた。
その死は突然訪れたものではあったが、最期は潮が静かに引いていくように穏やかだった。戦場を生き抜き、家族を持ち、仕事を勤め上げ、好きな武道を究め、孫や玄孫たちに囲まれた末の大往生である。
三上龍之介は、確かに死んだ。
意識が闇の中へ沈んだ次の瞬間、龍之介は底の見えない暗い場所を、ほんの一瞬だけ通り抜けたような感覚を覚えた。
やがて、その闇の向こうから明るい光が差し込んできた。それは目を焼くような強い光ではなく、温かな春の日に木々の隙間から降り注ぐ、柔らかな木漏れ日のような光だった。
龍之介が重いまぶたを薄く開くと、その光が視界いっぱいに広がった。
気がつけば、龍之介は現世とはまったく異なる建物の中に立っていた。先ほどまで病院のベッドに横たわり、指一本動かせなかったはずなのに、今は自分の足でしっかりと畳の上に立っている。
いつ、どこを通って、この場所へ来たのかは分からない。暗い場所を通り抜けたような曖昧な記憶だけが残っていたが、それ以前のことをどれほど思い返そうとしても、霧の向こうをのぞき込むようにはっきりしなかった。
龍之介が立っていたのは、ひどく広い日本式の部屋だった。
整然と敷き詰められた畳からは、かすかに青々とした香りが立ち、太い柱と精巧な欄間、重厚な襖が、部屋の格式を物語っている。奥には一段高くなった上段の間が設けられており、その造りは、龍之介が写真や映像で何度も見た二条城の大広間、大政奉還が発表された場面を思わせた。
障子越しに淡い光が差し込んでいるものの、あまりにも広い部屋には龍之介以外の人影がなく、物音ひとつ聞こえない。その中央にただ一人、龍之介だけがぽつんと立っていた。
「ああ、ここがあの世か。しかし、三途の川も渡っておらんし、お花畑も見ておらん。ということは、これから閻魔様に会うのだろうか。世界大戦へ出兵して、どうにか無事に帰国し、それからは家族とごく普通に暮らしてきた。定年退職したあとは趣味の武道に熱中し、平成の剣豪と呼ばれるまでに数々の武術を修めることもできた。全国津々浦々の温泉や寺社仏閣を巡り、そのついでに各地の道場を訪ねて鍛錬もできたのだから、もう思い残すことはない。幸せな人生だった。だから泣くな、孫たちよ。これも運命というものだ。しかし、今期のアニメの最終回だけは見たかったのう。そればかりは残念だが、死んでしまったものは仕方がない。これも運命と諦めるしかないか。さてはて、儂は地獄へ落ちるのか、それとも天国へ行けるのか。ここで待っていれば閻魔大王様が現れるのか、それとも阿弥陀如来様が迎えに来てくださるのかのう」
龍之介は誰もいない大広間を見渡しながら、自分の身に起きたことを一つずつ考えた。
不思議なことに、死んだことへの恐怖も、現状に対する激しい戸惑いもなかった。自分は百年を生き、家族に見送られて人生を終えたのだという事実が、極めて自然なこととして胸の内に収まっていた。
死後という世界は、案外そういうものなのかもしれない。
織田信長の娘である歩美姫と、正二位左大臣に任じられたばかりの三上龍之介正圀との祝言は、驚くほど急に執り行われることとなった。 本来であれば、織田家と三上家、さらには朝廷にも深く関わる縁組である。相応の時間をかけて支度を整え、諸国の大名や公家を招いた盛大な祝言となるはずだった。しかし、信長は関白兼征夷大将軍として毛利攻めを進めるため、近いうちに中国地方へ遠征しなければならない。ひとたび京を離れれば、しばらく戻れなくなる可能性もあった。 そのため、まずは両家の身内だけで仮祝言を挙げ、正式な披露については天下の情勢が落ち着いてから改めて行うことになったのである。 安土から急ぎ京へ呼び出された歩美は、父である信長から縁談を告げられた時、さすがに困惑を隠せなかった。「父上、私が三上様へ嫁ぐというお話は、本当に決まったことなのでございますか。せめて、もう少し前にお聞かせくださってもよかったのではありませんか」「前もって話しておれば、そなたは余計なことを考え、眠れぬ夜を幾晩も過ごしたであろう。決まったことを長々と悩ませるより、早く伝えて早く嫁がせたほうがよい」「そのような理屈で納得できる娘が、世の中にどれほどいるとお考えなのですか。父上は戦の支度も娘の祝言も、同じようにお考えなのですね」 歩美が呆れた顔を見せても、信長は悪びれる様子を見せなかった。「相手が気に入らぬというなら話は別だが、三上龍之介殿は帝の御子にして正二位左大臣、剣術にも優れ、何より天下の行く末を見通す目を持っておる。あれほどの男を婿にできる機会など、二度と巡ってはこぬぞ」「私は、まだ三上様のお顔すら、まともに拝見したことがございません」「ならば祝言の後、飽きるほど見ればよい。龍之介殿は朴念仁ではあるが、女子を粗末に扱うような男ではない。そなたが織田の娘であることを鼻にかけず、三上家の妻として誠実に仕えれば、必ず大切にしてくださるであろう」「父上がそこまで他人を信頼なさるとは、少々意外でございます」「儂とて、人を見る目くらいは持っておる。よいか、歩美。これは確かに政略による縁組だ。しかし、政略から始まった夫婦が、すべて
翌朝、嵐山の山々に朝の光が差し始めた頃、龍之介の屋敷へ御所からの使者が慌ただしく訪れた。「帝よりのお召しにございます。正装を整え、ただちに参内するようにとの御命令でございます」 帝から呼び出されること自体は、これまでにも何度かあった。龍之介は帝の話し相手を務めることがあり、宮中行事の際にも参内していたからである。 しかし、わざわざ正装を指定されることは珍しい。「承知した。支度が整い次第、ただちに参内するとお伝えくだされ」 使者へそう答えながら、龍之介には今回の呼び出しの理由が分かっていた。 昨日、本能寺で織田信長と交わした話が、早くも動き始めたのだろう。 龍之介は急いで身支度を整え、正装である束帯に身を包んだ。腰には、三上家に伝わる家宝の金太刀『金胴鳳凰宝相華文兵庫鎖太刀』を佩く。 鏡の前で装いを確認した龍之介は、屋敷の前に用意された牛車へ乗り込み、御所へ向かった。 車輪が軋む音を響かせながら、牛車は朝の京をゆっくりと進んでいく。すれ違う人々は三上家の家紋を目にすると、道の端へ寄って深々と頭を下げた。 やがて御所へ到着し、帝に拝謁するための広間へ向かうと、そこにはすでに大勢の公家が集まっていた。廊下では衣冠を整えた者たちが慌ただしく行き交い、誰もが突然の召集について小声で言葉を交わしている。 龍之介は権中納言という身分であり、本来ならば相応の位置へ着座することになる。しかし、これまでは余計な注目を避けるため、自ら進んで末席へ座ることが多かった。 ところが、この日に限っては着座する場所があらかじめ指定されていた。 案内されたのは、上座から二番目という極めて高い位置である。 龍之介がそこへ腰を下ろすと、周囲の公家たちは驚きを隠せなかった。何人もの者が、訝しげな視線をこちらへ向けている。「なぜ、三上の権中納言殿があの席に……」「帝の御子であるとはいえ、これまでは政治に関わらぬ世捨て人であったはずだ」 そんな囁き声が、広間のあちらこちらから聞こ
第十一話 初めての自宅屋敷 本能寺の変を未然に防ぎ、織田信長の娘との婚姻まで決まった龍之介は、ようやく帰路につくことにした。 これまで世捨て人のように暮らしていた龍之介も、ついに時代の大きな流れへと漕ぎ出したのである。 本能寺の外へ出ると、日はすっかり高く昇っていた。境内には初夏の明るい日差しが降り注ぎ、木々の青葉を鮮やかに照らしている。「中納言様、中納言様。しばし、お待ちください!」 門へ向かって歩いていた龍之介を、背後から呼び止める声がした。 振り返ると、森蘭丸がこちらへ駆け寄ってくるところだった。朝の光を受けたその姿は、やはり美しく、可愛らしい。龍之介は思わず、我が家の家臣に迎えたいものだと考えてしまった。「何ですかな、蘭丸殿」「嵐山のお屋敷まで、徒歩でお帰りになるおつもりですか?」 龍之介は本能寺へ来る際、明智光秀の軍勢から馬を借りていた。しかし、今はその馬もない。 本能寺から嵐山までは、徒歩で向かうには少々遠い。電車もなければ、バスもないこの時代、馬がなければ自らの足で歩くしかなかった。「御館様より、中納言様を屋敷までお送りするよう命じられております。馬を一頭、それから失礼ながら、腕に覚えのある者を二名、護衛として付けさせていただきます。どうか、お使いくださいませ」 そう言って蘭丸が示した先には、立派な馬と二人の武士が控えていた。 本来ならば、龍之介に護衛など必要ない。洛中ではその剣の腕前を知らぬ者は少なく、また、これまでは世捨て人同然の公家と思われていたため、命を狙われる理由もなかった。襲ってくる者がいるとすれば、事情を知らぬ物取りか強盗くらいであろう。 とはいえ、織田信長は祝言前とはいえ、すでに義父となる人物である。その厚意を無下に断る理由もない。「これはありがたい。安土様のお心遣い、謹んでお受けいたしましょう」 龍之介は丁寧に礼を述べ、馬と二人の護衛を借りて屋敷へ帰ることにした。 本能寺の門を出たところで、龍之介は周囲に目を配りながら静かに呼びかける。「影鷹はお
第十話 信長と龍之介 明智光秀が毛利攻めへ向かうために本能寺を出ると、謁見の間には織田信長と龍之介が残された。 信長は光秀が去っていった方へしばらく視線を向けていたが、やがて龍之介へ向き直った。「さて、中納言殿。儂は以前から、一度そなたと腹を割って話してみたいと思っておりました」「それは奇遇ですな。それがしも、安土様とは一度、ゆっくりお話をしてみたいと思っておりました」「では、茶室へ場所を移しましょう。蘭丸、茶室の支度はできておるか?」 信長が声をかけると、襖の外で控えていた森蘭丸が、間を置かずに返事をした。「はっ。すでに整っております」 蘭丸は、信長が龍之介と二人で話すために茶室へ移ることを予想し、謁見が始まる前から準備を進めていたらしい。 信長が細かな指示を出すより先に、その意図を読み取って動く。蘭丸が小姓として寵愛されているのは、容姿が美しいからだけではなく、主人の考えを先回りできる有能さを備えているからなのだろう。「中納言様、こちらでございます。茶室までご案内いたします」 龍之介は信長に続いて立ち上がると、蘭丸の案内で本能寺の庭へ出た。 庭園の一角に、周囲の景色へ溶け込むように小さな茶室が設けられていた。 建物そのものは質素で、華美な彫刻や金銀の飾りは見当たらない。しかし、庭の石や木々との釣り合いが見事に整えられ、窓からは季節の草花を借景として楽しめるよう工夫されている。限られた空間の中へ自然の美しさを取り込む造りには、武将としてだけでなく、文化人としても優れた感性を持つ信長の才能が表れていた。 龍之介と信長は、身体をかがめなければ通れない狭い躙り口から茶室へ入った。 室内に入ったのは二人だけであり、森蘭丸は外で待機している。わずかな物音にも対応できる位置にはいるが、二人の会話を邪魔することはなかった。 茶室の中には畳と土壁の落ち着いた香りが漂い、庭から聞こえる鳥の声と、時折風に揺れる葉の音だけが、静かな空間へ届いていた。 信長は龍之介の前へ座ると、自ら茶を点て始めた。
明智光秀が毛利攻めへ向かうために本能寺を出ると、謁見の間には織田信長と龍之介が残された。 信長は光秀が去っていった方へしばらく視線を向けていたが、やがて龍之介へ向き直った。「さて、中納言殿。儂は以前から、一度そなたと腹を割って話してみたいと思っておりました」「それは奇遇ですな。それがしも、安土様とは一度、ゆっくりお話をしてみたいと思っておりました」「では、茶室へ場所を移しましょう。蘭丸、茶室の支度はできておるか?」 信長が声をかけると、襖の外で控えていた森蘭丸が、間を置かずに返事をした。「はっ。すでに整っております」 蘭丸は、信長が龍之介と二人で話すために茶室へ移ることを予想し、謁見が始まる前から準備を進めていたらしい。 信長が細かな指示を出すより先に、その意図を読み取って動く。蘭丸が小姓として寵愛されているのは、容姿が美しいからだけではなく、主人の考えを先回りできる有能さを備えているからなのだろう。「中納言様、こちらでございます。茶室までご案内いたします」 龍之介は信長に続いて立ち上がると、蘭丸の案内で本能寺の庭へ出た。 庭園の一角に、周囲の景色へ溶け込むように小さな茶室が設けられていた。 建物そのものは質素で、華美な彫刻や金銀の飾りは見当たらない。しかし、庭の石や木々との釣り合いが見事に整えられ、窓からは季節の草花を借景として楽しめるよう工夫されている。限られた空間の中へ自然の美しさを取り込む造りには、武将としてだけでなく、文化人としても優れた感性を持つ信長の才能が表れていた。 龍之介と信長は、身体をかがめなければ通れない狭い躙り口から茶室へ入った。 室内に入ったのは二人だけであり、森蘭丸は外で待機している。わずかな物音にも対応できる位置にはいるが、二人の会話を邪魔することはなかった。 茶室の中には畳と土壁の落ち着いた香りが漂い、庭から聞こえる鳥の声と、時折風に揺れる葉の音だけが、静かな空間へ届いていた。 信長は龍之介の前へ座ると、自ら茶を点て始めた。 茶道具へ手を伸ばす所作には、一切の
歴史上、本能寺の変が起きた日の早朝。 もし、この日に本能寺の変が起こらず、織田信長が生き延びて天下統一を成し遂げていたならば、日本の未来はどのように変化していたのだろうか。 後世における世界の中心は、アメリカ合衆国ではなかったかもしれない。産業革命もイギリスではなく、日本から始まっていたかもしれない。 そのように評価されるほど、織田信長という人物には、歴史そのものを変える可能性があった。 本来であれば、その織田信長の命日となるはずだった朝、三上龍之介正圀と明智日向守光秀、そして光秀の配下数人は、本能寺の門前に立っていた。 龍之介たちは夜のうちに愛宕山を下り、まだ都が眠りから覚めきらない時刻に本能寺へ到着していた。周囲の家々は静まり返り、往来を行き交う人影もほとんどない。東の空がようやく白み始め、朝露を含んだ冷たい空気が、薄暗い京の町を満たしていた。 本能寺は一重の水堀と塀に囲まれており、寺というより、小さな砦と表現した方が似つかわしい造りになっている。 織田信長が京都へ滞在する際の宿泊所として使う施設であるため、敵の襲撃へ備えた最低限の防衛設備は整えられていた。しかし、本格的な城郭と比べれば、その守りが十分であるとは言い難い。 二条城という城があるのだから、そこへ宿泊すればよいものを、あえて本能寺を選んだことは、天下統一を目前に控えた信長の油断だったのかもしれない。 もっとも、史実では二条城も明智軍の別働隊によって攻め落とされている。そのため、本能寺の変は、織田信長を殺害するという一点においては、成功した謀反だったと考えてよいだろう。 しかし、今朝の本能寺へ明智光秀の大軍が押し寄せることはなかった。 光秀は信長を討つためではなく、腹の内を明かし、これまで抱えてきた誤解を解くために来ている。 謀反の意思がないことを示すため、光秀は愛宕山で身につけていた甲冑を脱ぎ、平服へ着替えていた。武将としての威厳は損なわず、それでいて主人へ拝謁する際に失礼とならないよう、身なりを丁寧に整えている。 光秀は一度だけ大きく息を吸うと、本能寺の門番